大阪城天守閣所蔵 戦国武将の書状
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |

天下布武の印判が輝く、歴史的戦勝を称える感状
一向一揆と信長の戦いは10年間続く。
この間信長は、一向一揆の総司令部、大坂(石山)本願寺救援のために現れた毛利水軍との戦いに惨敗。
そこで九鬼嘉隆に命じて巨大鉄甲船を建造する。これをもって天正6年(1578)11月、毛利水軍を見事撃破、大阪湾の制海権を握る。
書状はこれに先立つ同年10月13日付で、前哨戦に勝利した九鬼嘉隆へ宛てた感状。
○仕様
天地295mm×左右450mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

秀吉の、秀吉らしい手紙。
天正18年(1590)6月頃、小田原北条氏攻めの陣中から、正室北政所に出した秀吉自筆の手紙。
しばらく手紙をくれなかった北政所に「久しく便りがないので心配している」と繰り返し、母大政所や側室淀殿との間に生まれた鶴松、また養子、養女たちの健康を気遣っている。家族思いで人情味あふれる秀吉らしい手紙。
○仕様
天地288mm×左右470mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

目指せ!天下人。 意気揚がる家康の手紙。
本能寺の変から12日後、天正10年(1582)6月14日、織田信長の弔い合戦に向かう途中、美濃の松ノ木城主、吉村又吉郎に宛てた書状。明智光秀を倒し、自らが信長にかわって天下人になることを目論んだ家康は、又吉郎が早速に協力を申し出たことをたいそう喜んだ。
○仕様
天地290mm×左右458mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

活路を見いだそうとした、密書か。
父、信玄の意志を継いだ勝頼だったが、北条氏政と断絶、駿河、遠江の領国も維持することができない状態であった。そこで天正7年(1579)正月9日、外交僧安国寺恵瓊を通して毛利氏に、信長を攻めてほしいと要請する。本状はそのときのもの。1枚の料紙を上下に切り離し、通常より小さいことから、密書の可能性が高い。
○仕様
天地109mm×左右387mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

切腹の6日前、秀次は何を思ったか。
文禄4年(1595)7月8日、関白秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ高野山へと追放される。書状は翌9日、高野山へ向かう途中の秀次が、奈良の寝所で家臣に発したもの。いつもなら朱印を押すはずの秀次だったが、このときは花押(サイン)を据えている。ふたたび帰るつもりで聚楽第に印を置いてきたのだろうか。(秀吉の姉の長男。秀吉の養子)
○仕様
天地458mm×左右657mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

秀吉と豊臣政権を支える三成の気概。
徳川家康に敵対したため、石田三成の自筆書状はごくわずかしか残っていない。
本状は、慶長3年(1598)5月22日付、「秀吉から小早川秀秋のあと、筑前、筑後の領主とする計画があがったが、私は引き続き佐和山を領する」と、家臣の大音新介に書き慣れた字で伝えている。
○仕様
天地287mm×左右453mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

秀忠は、幻の六大老制を語っていた。
関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)3月22日に徳川秀忠が兄の結城秀康へ送った書状。
ここで秀忠は、六大老制になったら「あなたが6人のうちに加わること、ごもっともだと思います」と述べている。家康は五大老制の改変を模索していたようなのである。(家康の三男。江戸幕府二代将軍)
○仕様
天地360mm×左右540mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

よろめく書跡は、二日酔いのためか。
秀吉の養子だった秀秋は11歳のとき小早川家に養子に出される。
本状は、関ヶ原合戦5ヶ月前の慶長5年(1600)4月20日、のちに東本願寺の祖となる教如に宛てたもの。よろめくような文字は、前日に大酒を飲んだためか。秀秋の日常を垣間見ることができる。(北政所の甥。秀吉の養子、のちに小早川隆景の養子。)
○仕様
天地306mm×左右537mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

名称政宗は、大坂の陣を予言した。
慶長6年(1601)4月18日、関ヶ原合戦後、家康の豊臣秀頼に対する処遇が寛大すぎることを気にかけ、「いずれ関ヶ原で敗走した浪人たちが秀頼を担いで謀反を企てるのではないか」と、堺の茶人、今井宗薫に送った書状。弱冠34歳の政宗は、このとき大坂の陣を予言していたことになる。
○仕様
天地183mm×左右3063mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

清正は、豊臣家存続に細心の注意を払った。
豊臣系大名の代表格だった加藤清正は、徳川の世になってからも幕府から警戒のまなざしを向けられていた。そのことを知って、意識して行動を慎んでいた様子が本状からうかがえる。慶長16年(1611)3月25日に、友人の豊後府内藩主竹中重利に宛てたもの。
○仕様
天地310mm×左右485mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

徳川の難題に翻弄される史僚の苦悩。
方向寺の大仏九両の段取りに奔走する且元が、慶長19年(1614)7月15日、真言宗醍醐寺三宝院門跡の大蔵卿に宛てた書状。
天台宗の天海は、天台宗妙法院門跡が主導すべきもので、真言宗仁和寺門跡より上座であるべきだと家康に進言。このごたごたが解決しないうちに、有名な鐘銘問題が発生する。
○仕様
天地352mm×左右525mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付

大阪城に残る巨石への礼状。
元和6年(1620)に始まる徳川幕府の大阪城再築に際し、徳川秀忠から指揮監督を任された藤堂高虎の同年10月21日付書状。筑城用の多くの巨石を運び込んだ備前岡山藩主池田家の家老に宛ててねぎらいのことばをかける。
○仕様
天地175mm×左右518mm
印刷:高級美術多色刷印刷(デジタル・マイスター・リトグラフ)
用紙:特漉鳥の子紙(書状/タトウ包み)
解説シート、古文書ガイド(B4版)1通ごとに1点付
※実際の商品とは若干色が異なる場合があります。












